工作・産業機械の総合機能商社 株式会社兼松KGKの 1990年代ページ

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1990年代

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KGKのあゆみ

新事業へのチャレンジと新生・兼松KGKのモノづくりへの深耕

《バブル経済期と新商品にチャレンジ》

1989年1月、昭和天皇が崩御され、新元号は平成となりました。
1989年3月期、第26期の売上高は、732億円と記録を更新、過去最高となりました。
特徴的な結果はCAD/CAMソフトウェア関連の伸びであったことで、技術革新投資や合理化投資への意識が強くなったことがわかりました。
8月、トヨタ自動車の売上が、7兆円を突破しました。わが国の製造業界では初の快挙で、それは内需拡大、好況の象徴でもありました。
同年5月には、老朽化に伴う本社ビルの建て直しが決まり、その後199年11月に新本社ビルでの業務が開始されました。

1990年、バブル経済は最高潮を迎え、地価の高騰を招き、バブルで得た不労所得を米国の土地投資、世界的名画の買い占めなどに回す「金満」ぶりは海外からひんしゅくをかうことも少なくありませんでした。
空前の好況は、工作機械業界も大きく潤しました。当時の営業報告書では、好調な景気を背景に全業種にわたる設備投資需要により、過去最高の活況を呈し、特に旺盛な技術革新、研究開発の大きなうねりの中で、省力化投資に加え、深刻化している人手不足対策として各方面でNC化やシステム化などが高い伸びを示した、と伝えられています。

1990年3月期、第27期の売上高は、約761億円と成りました。 1991年、工作機械では取引内容の質的向上と業界シェア―の10%確保を方針と掲げる一方で、機械以外の商品にも目を向ける方針を打ち出しました。デンマーク製の高級家具を輸入販売する家具店でした。当社では欧州からの機械輸入でも経験を積んでおり、買い付けや輸送に関するノウハウがあったことや、好景気の追い風を受けて新しい商品にチャレンジしようという試みの発想でした。出店した東京郊外の街には、大学教授や文化人、会社経営者などが暮らしていて、軽井沢、那須等の別荘用に、と需要はそれなりにありました。しかし一方で、「サイズがヨーロッパ仕様で、大きい。」など色々なユーザーの声もあり、残念ながら経営維持が難しくなり閉店するに至りました。

新事業へのチャレンジと新生・兼松KGKのモノづくり

同年、「イトマン事件」が発覚、さらには、野村證券、日興、大和、山一など証券会社による総額約1730億円におよぶ損失補填、銀行の不正融資が明るみに出ることとなり、バブル崩壊と呼ばれる経済破綻が始まりました。

1991年3月期、28期は、バブル期の絶頂期にあった時の決算であり、売上高は、922億円と過去の実績を大幅に更新することができました。
しかし、当時の営業報告書は、湾岸戦争が短期間に終結したものの、米国経済の先行きは依然として不透明であり、国内においてもバブルの崩壊、金利高など続くなか、景気拡大のけん引役だった設備投資に陰りが見え始め、決して楽観を許さない状況にある、と冷静に局面を見つめていました。

《兼松KGKの誕生とものづくりへの深耕期》

1992年1月、本社新社屋開設に伴い社内記念行事を開催し、同時に東京・晴海の東京国際見本市会場では「KGKマシンツール'92」を開催しました。1991年11月から始まった「本社ビル新築記念キャンペーン」も継続中で、本社ビルにまつわる行事が続いておりました。

兼松KGKの誕生とものづくりへの深耕期
(写真: KGKマシンツール '92 風景)

兼松KGKの誕生とものづくりへの深耕期

株主総会の承認を経て、1992年8月、新社屋と共に現在の社名である株式会社兼松KGKが誕生し、始動することと成りました。

1992年8月1日、新社屋とともに株式会社兼松KGKが誕生、始動
(写真:㈱兼松KGK 新社屋)

《測定器グループを結成》

1992年、わが社がこれまで輸入総代理店として、一貫したサービス体制で業務対応してまいりましたスイスの放電加工機メーカー・アジエ社が日本法人を設立しました。これにより、わが社は総代理店の権利を返還し、一代理店として関係を存続する事になりました。 (スイス・アジエ社の総代理店の「あゆみ」は、別途記事があります。)

アジエ社を担当していたグループは再編を余儀なくされましたが、そこで着目したのが測定器でした。測定器もまた高精度の機器はヨーロッパからの輸入機が多く、接触型、非接触型など各種ありますが、ドイツのカールツァイス社製3次元測定器は、わが社の恒温室に展示されていました。

カールツアイス3次元測定器
(写真:カールツァイス製3次元測定器)

市場が高度な品質管理の要求度を高める環境下で、テサ社、カールツァイス社など0.1ミクロンの単位の計測を求められるお客様との商談が成立するケースも出て来ました。

東京本社の展示室(手前)と恒温室(奥)
(写真:東京本社の展示室(手前)と恒温室(奥))

プレスターアイ
(写真:プレスターアイ)

測定器の営業を重ねるうち、プレス機で量産される部品に対する精度の高い測定ニーズに直面しました。直ぐに社内で検討され商品化された自動測定器が、プレスターアイでした。プレス機の出口に測定器を設置して、製品を非接触で連続検査、問題が無ければ先へ送って、巻き取る。測定機とプレス機とが連動するというまだ存在しない検査商品でした。プレスターアイの導入によって大幅に時間短縮と普及に貢献する事が出来ました。

バブル崩壊後、品質管理に対する意識改革によって新たな需要が発生した測定機でありますが、創業時、ファインクロダサービスを支えていた黒田挟範製作所のメイン商品がブロックゲージであったことと、いみじくも重なり合い、改めて精度の追及ビジネスがここに復元しました。

バブル崩壊は工作機械業界にも冷や水を浴びせていた状況でした。
1992年3月期、厳しい状況下にあって、わが社はキャンペーンやマシンツール展などの積極的営業展開により、売上高約923億円と大健闘しておりました。

しかし、1993年3月期、30期の事業報告の内容は厳しいものになりました。
売上高は、約627億円と前期比32%の減収となりました。商品別でも旋盤・マシニングセンター・フライス盤など工作機で前期比40%減、研削盤、特殊加工機が33%減、その他工作機械が27%減、CAD/CAM・鍛圧機械・その他で11%減と軒並みダウンしました。

当時の対応策として、「ビフォーセールスサービス」、「技術サービス」、並びに「アフターセールスサービス」を強力に推進する。さらに今後は、工作機械の範疇に留まらず、新商品およびシステム開発にも注力し、業績の回復を図りました。

1993年4月、東京・晴海にある東京国際見本市会場で「INTERMOLD JAPAN'93」が開催され、わが社も出展しました。

「金型加工の最新技術を集結!」と題して、「省力、システム化」をテーマにCAD/CAMシステム、プレス自動化システム及び金型製造システムの一貫したラインを纏め上げました。特に自動化・省力化に焦点を絞り、素材から金型製品までのオンラインシステムを示した画像処理システム"プレスターアイ"は他に類似展示がなく、来場者の注目を集めました。

一方米国では、KGK International Corp.(KGK-I)の動向として、1993年8月、イリノイ州アーリントンハイツ市にあるKanematsu USA Inc.から独立し、同州バッファローグローブ市へ移転しました。同年10月、KGK-Iは、カリフォルニア州ロサンゼルス市とニュージャージー州に支店を開設しました。
(KGK-Iの「あゆみ」に関して別途記事があります。)

KGK-I旧ビル
(KGK-I旧ビル Kanematsu USA シカゴ・アーリントンハイツ市に同居したビル)

KGK-I 新ビル
(KGK-I が入居した、シカゴ・バッファローグローブ市の新ビル)

1995年1月、阪神淡路大震災が発生しました。
大震災と、超円高というダブルパンチを受け、より深刻な懸念材料が浮上していました。民間投資は底を脱したものの、急速な回復は見込めず、特に一部ユーザーでは生産拠点の海外シフトが加速するものと考えられ、国内産業の空洞化等わが国の産業構造は大幅な変革が迫っており、予断を許さない状況が続くものと思われると分析されていました。

1996年3月期、売上高は、約503億円と景気は少しずつ持ち直してきました。公共投資の拡大に伴い民間投資も刺激を受け、低金利住宅ローンの支援もあって、住宅建設ブームがけん引となりました。

1997年3月期、売上高は、570億円と回復してきました。一般機械と自動車を中心とした内需の回復と、米国市場を中心とした外需の増加により堅調な伸びとなりました。

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