工作・産業機械の総合機能商社 株式会社兼松KGKの 1970年代ページ

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1970年代

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KGKのあゆみ

大きな経済ブレーキとの闘い、拡張期を迎えた15周年

《急速な成長と市場の急減速》

1970年(昭和45年)7月、社名を兼松江商工作機械株式会社へ変更し、大幅な受注、売り上げの増大に対処する増資、成長に向かう大きな転機となりました。
60年代当時、黒田精工製以外にも代理店権扱いを増やしていましたが、当時のメイン商品は、いずれも初期原型の機械機種でした。現代のCNC工作機械の付加価値と比べると、1台当たりの価値は1/10であったように感じます。

これらの商材をひたすら地道に販売を続けることで1968年3月期は、約6億1000万円の売上げを計上し、苦しい始動初期を乗り越えて黒字に転じ成長期に入りました。
1969年3月期に14億円、1970年3月期に約31億円、1971年3月期には53億円と毎年2倍以上の売上の伸びと共に、資本金も毎年増資して来ました。
同時に支店営業所も充実して行きました。大阪支店の移転、名古屋支店の移転、そして札幌出張所、福井駐在員事務所、福岡出張所、松本出張所、静岡出張所、仙台出張所を新規に開設しました。

しかし、1978年8月、米国のドル防衛政策である金とドル紙幣の兌換停止が発表され、その翌日から東証ダウ平均は大暴落となった、いわゆる「ドル・ショック」「ニクソン・ショック」です。
同年12月には世界主要国の蔵相会議が開催され、固定相場は変動相場へと移行しました。
日本円はそれまで1ドル360円に固定されていましたが、同年12月には309円となり、変動相場によってドルは下がり続けて行きました。やがて1ドル100円時代が到来するわけですが、当時は誰も予想していませんでした。米国の保護政策は、世界経済に大打撃を与えました。

1972年春には、「ドル・ショック」の結果が日本国の産業界の工作機械に対する著しい需要の減退となって現れ、業界の過当競争の始まりと共に販売条件の悪化などをきたし、わが社の業績は受注額の減少、採算の悪化を経験しました。

一方、日本政府は閣議決定で、対外経済緊急対策(円対策)を打ち出し、関税の一律20%引き下げなどが実施され、その結果、国際収支は66億ドルの黒字を計上しました。実質経済成長率は、8.5%と高度経済成長を維持することが出来ました。

当時、田中角栄首相の提唱する日本列島改造問題懇談会が初会合をもち、「列島改造」による空前の建設ブームと地価上昇の波が押し寄せようとしていました。

これらの変動の波を受けながらも、1973年5月には創立10周年を迎え、群馬県太田市に太田出張所、福岡出張所を開設し、販売体制の拡充と強化を実行しました。1974年春には、日本の経済が、まさに高度成長の勢いを示して行きます。

1970年代 大きな経済ブレーキとの闘い、拡張期を迎えた15周年
(写真:創立10周年式典風景)

ところが、飛躍的な伸びに水をさす次なる大きな危機が訪れました。
オイルショックです。
1973年10月、中東イスラエル軍と、エジプト、シリア、サウジアラビアなど10カ国の連合軍との間でスエズ運河を挟み、第4次中東戦争が勃発。これが引きがねとなって、わが国は石油危機「オイルショック」に襲われました。
1974年から1976年3月までの期間は、オイルショックの影響により、工作機械業界は長期的な需要の低迷と過当競争による採算割れなど不振をきわめ、まさにドロ沼の様相を呈し、売上・純利益共に落ち込みました。

この不況を乗り切るために、財務面での販売資金の圧縮や資金負担軽減策をはかるなど自衛に徹せざるを得ない状況でした。営業面では、在庫圧縮策の推進、優良ユーザーの開拓、合理化機種の販売強化、韓国など近隣諸国への輸出促進などに務めました。
努力の甲斐もあり、不況下にあっても、1974年9月に高松出張所、1975年5月に広島出張所の開設を実行し、1976年に入ると、オイルショックのドロ沼も明るい兆しを取り戻して来ました。

《オイルショック後の成長期》

オイルショックからの復帰の兆しが見えた1976年以降では、自動車、弱電、カメラ関連の業種などを中心に工作機械需要は増加して来ました。
但し、重厚長大産業に関しては、設備意欲に乏しく需要は冷え込んだままでした。
そうした中にあっても、1979年3月期、売上高は、272億円の過去最高記録を更新し工作機械の販売実績では業界トップの躍進ぶりでした。

1979(昭和54)年度から1980(昭和56)年度に掛けての第17期から第19期までは、毎年100億円単位で売り上げが伸びる結果となりました。第19期の売上高は、約541億円となり、年商500億円企業となりました。

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