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1960年代

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KGKのあゆみ

ファインクロダサービスの創業始動期から兼松江商傘下入りまで

《創業始動のルーツ》

1963年5月、わが社の前身である株式会社ファインクロダサービスが、東京都中央区日本橋4丁目のビルに看板を掲げ創業誕生致しました。初代社長として黒田彰一が社長に就任し、株式会社黒田挟範製作所(現在の黒田精工株式会社)の子会社として、黒田挟範製作所や関連会社の製作する工業用機械器具の販売や、設備、資材等の購入代行、広告宣伝や企画立案等を主目的として発足しました。

ファインクロダサービス本社事務所
(写真:1963年(昭和38)年、開設当時のファインクロダサービス本社事務所)

平面研削盤を自家用に
(写真:1953(昭和28)年に開発した平面研削盤の原型機)

具体的な事業は、「ゲージや金型の受注生産が主体」で、ゲージとは直方体ブロックゲージで高精度な製品加工には不可欠な寸法基準となるブロックですが、黒田挟範は基本寸法精度にこだわり抜いて製作した基準ゲージの国内トップメーカーでした。ブロックゲージなどの金属を加工するために、黒田挟範では独自に平面研削盤を開発していました。平面研削盤は、金型メーカーなどの需要が予想されたものの、それを販売しようにも黒田挟範は、ゲージを扱う工具類の代理店網しかもっていませんでした。
「思いきってゲージなどを在庫するとともに平面研削盤などの見込み生産品をストックして"造って置いたものを売る"という販売のダイナミズムに転換を図りたい」
こうして、わが社の前身ファインクロダサービスは、黒田挟範製平面研削盤を主商品に、国産機国内販売の会社としてスタートを切りました。
同年11月には、大阪市福島区福島中2丁目のビルに大阪支店を設立し、

大阪支店を開設
(写真:1963(昭和38)年11月には東京本社に続いて大阪支店を開設)

翌年1964年には、名古屋市中区長嶋3丁目に名古屋支店を設立しました。 1964年10月には東京五輪が開催され、カラーテレビが普及する切っ掛けと成りましたが、1965年3月のファインクロダサービスは、従業員20名となっており同年5月には本社を日本橋本町3丁目へ移転しました。
1965年6月、黒田挟範製作所は黒田精工株式会社に社名変更しました。
1966年、ファインクロダサービスは再び日本橋本町4丁目へ本社を移転致しました。

この頃、カラーテレビ、クーラー、カーの「3C」が庶民のステータスとなり、自動車産業も、トヨタ「カローラ」、日産「サニー」など量産車を製造、販売して業績を伸ばしていました。
家電、自動車産業の伸長により、部品製造を担う中小企業も、金型、工作機械への設備投資が活発化する。世界に冠たる「モノづくり」技術が向上、躍進する時代でした。
世の中は、いざなぎ景気と称する時代に成っていました。
当時ファインクロダサービスは、黒田精工の平面研削盤の販売会社でありましたが、一部の営業は、他メーカーの機械製品も多少販売していました。
景気の急上昇で、数カ月前には大量にあった在庫も全て売り切れて、納期が長くなり、販売するものがない様な有様でした。売り上げの伸びに反して、なかなか黒字安定経営に達する事は難しく、活気みなぎる市場を前に、指をくわえて眺めている。そんな状況を打破するために経営陣は新たな決断を致しました。

《兼松江商への会社組織転換》

1967(昭和42)年6月、兼松江商(KG)がファインクロダサービスに資本参加して新しい工作機械の販売会社を作るという合意の元、ファインクロダサービスの経営主体は黒田精工株式会社から兼松江商株式会社へ移り、社名も兼松江商工作機械販売株式会社(KGK)と改称されました。
初代社長に就任した田口重雄はもと甲子園球児、1933(昭和8年)年、当時全国中等学校優勝野球大会と呼ばれた甲子園大会に、明石中学の7番左翼として出場し、明石中は準決勝戦で中京商と延長25回にわたる死闘の末、1対0で敗れた経験を持っていた。豪快で、熱血漢、工作機械業界では名の知れた剛腕と評判でした。今から思えば精神論かも知れませんが、理路整然と明快な営業方針とビジョンを端的に表現し、実行しました。

田口重雄
(写真:田口重雄 初代社長 兼松江商工作機械販売㈱)

1.工作機械のお客様は我々よりも深い専門知識を持っているし、長期間使用に耐え得る商品であるから専門商社を造る必要がある。在庫商売だけをやるのならKGKを作る必要はない。
2.より多くの客先へ出かけてゆきニーズを拾い集めて勉強せよ。
3.早急に事務所を郊外へ移して、ショールームを持つ方針である。それも並べるショールームではなく、加工する実演ショールームである。
事務所を郊外に置くとした意図は、モータリゼーションによって営業活動が自動車中心となり、しかも顧客である製造業は山手線内(東京地区)ではなく、郊外に工場を持っているところにありました。
ファインクロダサービス時代から、一件でも多く客先をまわりニーズをいち早く掴む事を目的に、一人一台の自動車が与えられていました。新人を始めとして全社員が毎日新規開拓に勤しみ、理屈の前に行動する事が当然として受け入れられていました。

これが兼松江商工作機械販売㈱(KGK)となって、工作機械の専門商社としての一歩を踏み出しました。機械販売の代理店権を取得し、新潟への出店や技術サービス部の立ち上げなどを行い、少し後になりますが東京都練馬区桜台への本社移転などが次々に行われてゆくこととなります。

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